「あ、ヤバイ、教科書忘れた。ミユキ、見してくんない?」
「……………」
 隣の席のそいつは眠そうに目をしばたかせて俺のほうを見、けれどぼんやりした表情も億劫そうな態度も何ら変わることなく、英語の教科書を俺の机に放って寄越し、自分は机に突っ伏してしまった。どうやら本格的に寝るつもりらしい。
 ミユキなんて言っても、女じゃない。背が高くて顔がいいだけの、うすらぼんやりした男だ。
 せめてノートくらい取れよ。
 隣の席になってから結構経つが、こいつのことはさっぱりわからない。わかっているのは、真面目にテストを受ければ不二と張るくらい勉強ができること。
 ああ、クラスと(当然俺と同じ3年6組)、出席番号と(どうでもいい情報だ)、フルネームも知ってるな。
 大石海之と書く。漢字だけ見れば男名前なのに、音にすれば「ミユキ」ちゃんだ。一応本人も気にしているらしいが、ちっともそうは見えないし、大石と苗字で呼ぶのは紛らわしいので、俺はずっとミユキと呼んでいる。


□ ■ □ ■ □



 今日も部活。今日もテニス。変わり映えのしない毎日だけど、テニスコートを走りながら、ロッカーで着替えながら、俺たちは他愛もない話をする。たとえばテニスの話だったり、ムカつく先生のことだったり、宿題とか、お小遣いとか、中学生らしい。
「今日、数学と英語が入れ替わったの忘れてて、教科書なかったんだよね」
「えっ? 俺のクラス英語あったから、借りにくればよかったのに」
 大石、やさし〜©
「いや、気づいたの授業始まってからでさ」
 借りに行けなかったんだよね。
「それでどうしたんだ?」
「ミユキに見せてもらった。あ、ミユキって隣の席の奴でさ、変わってんの」
「……ふうん」
「れ? どうかした? 大石」
 今日に熱が冷めたような反応に俺は敏感に気づいて、隣の大石の顔を振り向いた。
「いや、何でもない。悪いんだけど英二、俺、手塚と話したいことあるから、先帰っていいよ」
「待ってようか?」
「でも遅くなるから……ごめんね」
「ふーん……」
 変なの。思ったけど口には出さなかった。大石が本当にすまなそうに謝るから。



 不二と2人で校門を出ながら、茜色の空を見上げる。赤とオレンジの中間の色をもっと鮮やかにした染料をぶち撒けると、きっとあんな感じになるだろう。
「英二、わかってる?」
 手塚と帰りたかったのだろう、不二が不機嫌になっている。不二が意地悪なのはいつものことのようにも思えるけど、機嫌の悪いときはさらに注意が必要だ。
「にゃっ、にゃに?」
 心なしか後退る。帰宅のため前へ歩いているはずなのに、我ながら器用だ。
「大石が英二を帰らせた理由!」
「理由って……、手塚と話があるからだろ?」
「そうかなあ? 僕は違うと思うけど」
「じゃあ何だよ」
 あんまり腹の探り合いとかは得意じゃないので、謎かけみたいな不二の言葉に、俺はいつも振り回される。
「英二があんまり楽しそうにミユキの話ばっかりするから、大石が身を引いたんだよ」
 ……は?
「ええーっ!? まさか! 何で?」
 何でそういうことになるんだよ。
 ―――言わずもがなだが、不二も当然紛らわしいという理由でミユキを名前で呼んでいる。
「僕は同じクラスだからミユキが男だって知ってるけど、知らない人が名前だけ聞いたら女の子だと思うんじゃない?」
 最近の君たち、亀裂入ってるっぽかったし。
「……だからって、大石が……」
「ミユキに嫉妬したり、慮って身を引いたりはしないだろうって?」
 そうだ。いくら「ミユキ」が女だと勘違いしたにしても、女の子なんて大勢いるのに、どうして「ミユキ」が俺と特別な関係だなんて思うのだろう。女の子の名前が出るたびにそんなこと言ってたら、世界中の女の子にヤキモチ焼かなきゃならない。
 けれど、それ以上は不二も揶揄っているように「さあ?」としか言わなくて。
 冷たく湿った霧のような風が、ぎゅっと握った俺の拳と、不二のラケットバッグを持つ手の間をすり抜けていった。


□ ■ □ ■ □



 ホームルームが終わるなり教室を飛び出して、部活に行こうとしていた大石を捕まえる。
 最近どうも避けられ気味だったから、断れないように話を持ち出さなければならない。
「大石、ちょっといい?」
 上目遣いに尋ねると、大石は困った風に微笑んだけれど、ダメとは言わなかった。
「何だい、英二」
「大石は、俺がミユキのこと好きだなんて思ってんの?」
 単刀直入すぎて大石絶句。
「やっぱりそうなんだ!」
 語気荒く言われ、大石はなかなか言葉が出てこない。
「ミユキのことはっ、そりゃ嫌いじゃないけどただのクラスメートだしっ、俺は男同士なんて大石以外絶対ごめんだからなっ!」
「…えーと……え……」
 たっぷり5秒以上は鼻息も荒く睨みつける菊丸の前で呆然とした言葉を繰り返し、そして出てきた言葉は。
「えっ……男?」
 よしよし、聞いてほしいところはちゃんと耳に入っていたようだ。
「そ! ミユキは男! 信じないんなら不二に聞いてよ。それとも直接会う?」
 今なら教室に戻ればまだいるだろう。どこか部活に入っているとは聞いたことがないし。
「えーと……下の名前? だよな?」
「まだそこにこだわるかあっ!」
 ちゃぶ台をひっくり返す親爺のような勢いで、俺は怒鳴った。
「別に苗字でも下の名前でもいいだろ! 何だよ、そんなに気になるのか? それとも、秀一郎って呼んでほしいのか?」
「い、いや、俺はどっちでも…」
「どっちでもいいと思ってないから、そんなこと言うんだろ! もういい! 俺知らない!」
 ダッシュで逃げた。
 大石の馬鹿。大石なんか知らない。俺が好きなのは大石なのに。俺にとって大石は特別だから、ミユキのことは「大石」って呼びたくないだけなのに。


□ ■ □ ■ □



「あ……、まだいたのか…」
 一体いつからそうしているのか、ミユキはまた机に突っ伏していた。黒の学生服に包まれた肩が規則的に盛り上がり、少しの間を置いて下がっていく。
 呼吸こそ深いが、何となく俺はミユキが眠ってはいない気がした。布団にもぐって目を閉じてはいるけれど、睡眠中ではない。そんな感じ。
 俺は、ミユキの隣、自分の席の椅子を引いて座った。教室には俺とこいつ以外、もう誰も残っていない。
「ミユキ」
「……………」
 返事はない。
 まあいいか。独り言だとしても。どうせ他に誰も聞いてない。
「大石…ってミユキのことじゃないぞ、テニス部の大石だからな……その大石が俺とミユキを誤解してるらしいんだよ……。あ、いや、不二の言うことだから揶揄われただけかもしんないけど」
「………菊丸は」
 やっぱり起きてた。
 反射的に思ったことはそれだった。別に驚きはしない。初めから疑ってたわけだし。
 ミユキは顔を上げない。机に載せた両腕を枕にして俯せているから、こちらからは横顔も見えない。ただ声は寝起きのものにしてはしっかりしている。
「菊丸は嫉妬はしないのか?」
「へ? 俺? んー、どうだろ」
 そのときになってみなければわからない。ように思う。とりあえず今のところは経験がない。大石はいつだって俺の隣にいたから。
「秀一郎が男にモテまくったとしても何も思わないのか?」
「は? え? てゆーか、男に?」
「何ともないのか? お前たちが男同士でそういう関係なら、嫉妬の対象も男なのかと思ったんだが」
 いや、話題になっている事柄よりもむしろ気になることを今言わなかったか? 下を向いていて、さらに顔の周囲に腕があるせいで、ぼそぼそと喋るミユキの声が聞き取りづらい。
「じゃあ、秀一郎が女子に囲まれていても何も思わないのか?」
 ミユキは対象を女子に変えて言い直してくれたが、俺が問いただしたいのはそこじゃない。
「秀一郎って…」
「大石秀一郎の話じゃなかったのか?」
 聞き間違いでも人違いでもないらしい。
「英二っ」
 白馬に乗った王子様のごとくナイスなタイミングで、教室の戸が開かれた。
「お前か、秀一郎」
 ミユキがようやく上げた顔には、満面に意地の悪い笑みが広がっていた。初めて見る表情だ。
「どうだ? 当たったろう」
「災難だ!」
 やはり初めて見るにんまりとした笑みで、ミユキは単調に拍手した。
「おめでとう。修復された傷は柱をより頑丈にすることもあるというぞ」
「そもそも傷なんかない」
 大石は俺を立たせ、強引に教室を出ようと引っ張る。逆らう理由も見つからず従いながら、ふと振り返るとミユキはもう笑っていなかった。いつもの怠惰そうな彼だった。



「何なんだよ一体」
「ごめん英二」
 急に謝られても困る。理由がわからない。
「俺が悪いんだ。海之の占いなんか信じたばっかりに、英二に嫌な思いさせて…」
「占い?」
 大石はポケットから折りたたんだ紙を取り出して俺に見せた。几帳面な大石のものにしては珍しく、しわくちゃだ。
 広げてみるとそれはごく普通のレポート用紙で、緑色の細い筆跡でこう書かれていた。
「『あなたの今の恋人に新しく想い人ができるでしょう。けれど数日の辛抱です。恋人はすぐにあなたのもとへ帰ってきます。器の大きいところを見せるためにも、焦らず怒らず、一度距離を置いてみてはいかがでしょう』……何これ?」
「海之が最近俺を占ったらこう出たって、くれたんだ」
「こんなもの信じたの?」
「海之の占いはまず100%当たる。こと恋愛に関しては全く当たらないけど」
 そりゃまた極端な占い師だ。女性客がつかないんじゃないか。
 いやいや、それより、ここに書いてあることは思いっきり恋愛関係じゃないか。
「まさか英二が海之を名前で呼んでるとは知らなかったし…」
「それはこっちの台詞だって! 大石がミユキを『大石』って呼んだって全然問題ないのに、何で名前で呼ぶんだよ」
 それに、ミユキも大石を名前で呼んでた。
「あ、それは一応親戚だから」
 血は遠いけどね。
 なんて爽やかな笑顔。一度は静まったはずの怒りがまた沸きだしてきて、俺の声がトゲを含む。
「で? 恋愛関係は当たらないはずなのに俺が女の子っぽい名前なんか出したからうっかり信じちゃって、距離を置こうとしたって? バッカじゃねーの!」
「うん…、ごめん……」
 そんな寂しそうに謝らないでほしい。すぐに抱きついて許してしまいそうになるから。
 本当は今すぐ飛びつきたいけど、一応こっちが怒っている立場だから、自分からは手は伸ばさない。でも、我慢してるつもりなのに、指が意に反して大石の服の裾を掴んでしまう。
 大石が気づいて苦笑した。
「ダメだよ英二。部活サボる気?」
 そうだった。言い訳を聞くどころか、その後も我慢だ。
「じゃ、せめてキスして」
 一呼吸の間。
 遠慮がちに大石の指が伸びてきて、俺の頬に触れた。次に来るものを待って俺は目を閉じる。
 与えられたのは、ちゅ、と可愛い音がするだけの軽いキス。

 大団円とはいかないけれど、こんなふうにキスひとつで許してしまえるのなら。




- CLOSE -



海之にはモデルがいます。
手塚海之といって、とにかく100%当たる占い師でした。恋愛はどうだか知らないけど(笑)
苗字は「手塚」のままでも下の名前で呼ぶ理由にはなるんだけど、特別うんぬんの台詞のために「大石」に変えました。

(2005.04.28.)